赤城高原ホスピタル体験記    赤城高原ホスピタル

(改訂 03/11/24)


「足から回復」

 57歳で定年後、酒びたりの生活になりました。救急車や警察騒ぎがこの3年間で10回以上にもなったので、入院することにしました。自宅からは200km以上も離れているけど、せっかく長女がインターネットで見つけてくれたので、ホスピタルにやってきました。入院して2週間、ミーティングに出ることと抗酒剤を飲む以外は自由な生活を満喫しています。足を鍛えるために、一人で山道を下って敷島温泉に行ってきました。「いこいの家」という温泉施設で赤城高原ホスピタル入院中ですと言ってみたら、入湯料を村民並みの200円にしてくれました。赤城村役場で観光資料をもらって、ちょうどそこにいた中年のおっさんと10分くらい立ち話をしていたら、通りかかった村の人や職員が挨拶するので不思議に思いました。後で別の人が、あの人村長さんだよ、と教えてくれました。先行く仲間が、「足から回復」と言っていたのはこのことかな、と思って聞いてみたら、「ちょっと違うかも」と言われました。(60歳、男性)


「自分のペースで病院生活をプログラム」

 こんにちは、わたしは、ここ「赤城高原ホスピタル」に入院中の患者のひとりです。この病院に割合多い若年女性アルコホリックです。家庭問題、不登校、アルコール・薬物問題、自傷行為、摂食障害など多問題のために、20数年間もこの病気とお付合いをしています。ここには私と同じような(アルコール依存症+いろんな嗜癖)の人がいっぱいいます。先日、院長先生に「赤城体験記」を書いてほしいと頼まれ、ちょうど、いろいろ考えていたところなので、「はいはい」と2つ返事でOKしてしまいました。まあ、少しはごますりもあるけど、ここに書いてあるのは、ホントのことです。

 精神病院というものに対して、世間ではまだ偏見を持っていると思います。暗い、汚い、怖い、鉄格子で閉鎖された病室に監禁され、鬼のような看護士に見張られている。とそこまですごいとは思っていなくても、ある程度は軟禁状態であると考えているのではないでしょうか。
 そのような病院も、実在するとは思いますが、ここ「赤城高原ホスピタル」は別世界です。一部の特別な病棟を除いて、完全開放病棟ですし、入院形式も、本人の意志を尊重する任意入院です。退院の期日も、主治医と相談して、入院患者本人が決めます。
 病院というところは、概ね規則が厳しく、息苦しいほど時間に縛られているところが多いものですが、その点でもここは天国。一応、起床6時半、消灯21時ですが、朝寝をしていても叩き起こされることはありませんし、夜眠れない人には、一晩中起きていても良い部屋が用意されています。
 この病院には、様々なアディクション(嗜癖)の患者さんたちが入院しているので、治療プログラムとして多種多様のミーティングがありますが、出席は強制ではなく、医師や看護婦(看護師)は相談に乗ってはくれますが、あれこれと指図することはありません。

 ここでは医師が病気を治すのではなくて、患者自身が治す。治療スタッフは、患者の回復したい気持を引き出し、それを育てる。「今までの病院とどこか違う」と、入院してしばらくして感じたのは、そのことです。入院生活の細かいところまで、そのポリシーで貫かれているということがだんだん判ってきます。病気を治すのは、医師ではなくて本人自身です。ここでは、自分の体力、気力、健康状態に合わせて、自分のペースで回復に向けての病院生活をプログラムできます。
 また、本人がまだ治療に来られず、家族だけが治療につながっている方も大勢おられます。同じ問題で悩んでいる仲間に会って、ご家族が変われば、本人もいつか変わっていきます。私の母も治療に参加しています。

 私も回復に向かってゆっくりと歩いています。のろまのようにみえても着実な1歩です。  (1999年2月、 M.Y.さん)


「なんだかここが自分のオウチのような感じです」

 赤城高原ホスピタルで入院生活をしていた頃、一番気に入っていた場所は、2階の病室です。窓が大きくて、昼間は、病院周りの森林、そして夜は見渡す限りの夜景と満天の星空を見ることができます。診察や治療プログラムで疲れた体を、純白のシーツにくるませてベッドから眺める木々の緑と空は最高です。
 
 近くのコンビニエンスストアへ買い物に行く時は、秋はこんにゃく畑、春は桜並木を通ります。気持のよい散歩道です。この前は、たくさんの美味しそうなキャベツが畑に実っているのをみかけましたので、早速近くの農協で購入しました。散歩から病院へ帰ると、ほっとして思わず”ただいま”と言ってしまいます。看護の方や病室の方々から”お帰りなさい”という言葉が返ってくると、なんだかここが自分のオウチのような感じです。
 
 大部屋では、冬はこたつにあたりながらしゃべっていたり、体育館でバドミントンや卓球をしたり、芝生の上でひなたぼっこしたり、ドクターやワーカーと面談したり、看護の方に体の調子をみてもらったり、ミーティングに出たり、大浴場で風呂に入ったり、洗濯したり・・・。

 書き出すときりがないほど多くのことを自分自身がしていたことに気が付きました。もともと人嫌いで対人恐怖があり、閉じこもりがちの私にとっては大きな変化です。

♪  ♪   ♪  ♪  ♪   ♪  ♪  ♪   ♪  ♪  ♪   ♪  ♪ 
 今わたしは、退院して通院をしていますが、入院中のこの体験と自分の感覚を一人暮らしの生活にとりいれてます。調子をくずしたらまた入院しようという気持で気楽に構えて、回復を急がず、ゆっくり、ゆっくり、・・・。    (1999年5月、 Mさん)


● 「そこは今までの入院生活とは 180度も違う別世界でした」 

 18歳から23歳まで、拒食過食の繰返しで、30-85kg の体重変化と自殺未遂など情緒不安定のため、5回以上も精神病院に入院し、この5年間のほとんどを精神病院の中で過ごしました。その間にだんだん処方薬が増えてきて、完全に薬漬けの状態になっていました。精神病院での入院生活では、起床から就寝まで、食事、薬、持ち物、電話など、すべて看護婦管理で、まるでロボットのような生活。ほとほと嫌気がさしていたころ赤城高原ホスピタルを知り3カ月間入院しました。

 行ってみると、そこは今までの入院生活とは、180度も違う別世界でした。開放感のある大きな窓、周りの美しい景色、患者の自主性を尊重する自由な入院生活など、正直言って驚きと同時に戸惑いを感じるほどでした。

 院長先生から「こんなにたくさんの薬を飲まなくていいんですよ。減らしましょう」と言われ、それまで大量に飲んでいた薬を減らしてゆくにつれ、自分について病気についていろいろ考えられるようになり、だんだんと人間らしい 気持をとりもどし、普通の生活ができるようになりました。過食でつらい時期もありましたが、仲間や先生の助けがあり「ダメな自分でもOKよ」 と少しずつ思えるようになりました。

 私にとって赤城体験は、文字通り暗闇の中の一筋の光でした。5年前の3カ月の入院中に薬もほとんどやめられ、その後は1度も入院していません。今は過食も何とか止まっています。 (1999年9月、M. I. さん)


 「高校の同窓生のように、赤城体験談に花が咲きます」 
 半年前に赤城高原ホスピタルに2カ月入院しました。入院中の患者同士も看護の方もいつの間にか家族のように感じてしまい、退院のときはうれしさ半分、淋しさ半分でした。
 退院直後にスリップ1回、その後は問題なく、現在ソーバー4カ月目です。ほとんど毎日自助グループに通っています。赤城高原ホスピタルから150km以上も離れた当地でも、ホスピタルの退院者に大勢会い、赤城体験談に花が咲きます。名門高校の同窓生のようです。
 良い勉強をさせていただきました。まるで病院という感じのしない場所でした。再入院は嫌だけど、看護婦さんや病院のスタッフには会いたい。そのうちにきっとメッセージに行きます。 (1999年10月、N.Y. さん)


 「母親のわたし自身がパニックになり入院しました」
 娘が(ガリガリの摂食障害+アルコール依存症+家庭内暴力)でどうしようもなくて、疲れはて、母親の私自身がパニック状態になり3週間入院しました。朝夕の家族ミーティング、月−木曜日の午前中の集団療法で多くの仲間と会い、自分の悩みを話して仲間に受け入れられ、また心に残る仲間の体験談、いろいろなトラブルに対する適切な対応策を聞くことができました。摂食障害、アルコール症、薬物乱用者などの回復者の方のお話しも一つひとつすばらしくて、勇気づけられました。ミーティングの間には、ゴルフ場を一周したり、畑の中を歩いてコンビニや農産物直売場に買い出しにでかけたり。思い出に残ることばかりです。おいしい空気、美しい夜景や木々の緑に癒され、優しい先生や看護の方々、仲間に力をもらって、今までの悩みが消えて、すがすがしい気持になりました。「変えられないものを受け入れ、変えられるものを変え」てゆく自信がつきました。       (2000年5月、T.T. さん)


 「ホスピタルの二つの楽しみ、それはミーティングと散歩です」
 過食とお酒、35-72kgの体重変化。抗うつ剤を幾種類も飲み、カウンセリングにも通っていたのに、一向に改善されないで心身ともにクタクタになった私を見かねた父が、インターネットでホスピタルの資料を取り出してくれました。
入院して1カ月、ここでは過食をしても咎められることはなく、実際に入院中も過食と嘔吐を続けている方もおられますが、私の場合は、入院して以来、あんなに毎日だった過食の回数が抑えられています。抗うつ剤もやめたのに、不思議です。

 ここでは、主治医との面接のほかに、「ミーティング」と呼ばれる同じ悩みを抱える患者同士の、言いっ放し聞きっぱなしの場が毎日あります。私はここで仲間の話に共感したり、感心したり、回復のヒントをもらったりしています。そして、仲間の話に触発されて自分の気持を話すと、自分が知らなかった自分がむくむくと起き上がってきます。自分の話した言葉にびっくりすることもしばしばです。慣れないうちは何を話そうかと考え過ぎて疲れたけれど、今では成り行きに任せて楽しんでいます。

 もうひとつの私の楽しみは、散歩です。ホスピタルのまわりは豊かな自然が一杯。私のお気に入りは隣接するゴルフ場を一周するコース。多少起伏があるので最初はきつかったけれど、今は休むと落着かなくなるほど生活の一部になっています。快晴の日が一番ですが、雨上がりのゴルフ場のグリーンも格別です。最近では散歩に出る時にカメラを持って、少しずつ変わってゆく季節の変化を記録しています。     (2000年6月、Y.T. さん)


 「今日、強制退院になりました。また来ます」
 アルコールとシンナーは中学から、摂食は高校から、処方薬依存は2年前から、自傷行為(根性焼き、手の甲にかみつきと切傷)が1年前から、覚せい剤が4カ月前からという21歳の女性です。やっと入院させてもらった赤城高原ホスピタルなのに、800錠の処方薬をこっそり持込んでいるのが見つかり、入院6日目の今日、強制退院になりました。きちんと外来に通えば、3カ月後に再入院させてあげる、と院長が言ってくれたので、またドクターやナースを困らせに来たいと思います。     (2000年8月、アラレさん)


 「ある日、心が壊れた」
 ある日、心が壊れた。
 「明るく、元気なしっかりものの女の子」の日常に
 ふいに差し込まれるモノクロの画面。
 繰り返される情景は、まるで無声映画のようだった。
 父親に殴られ、蹴られ、引きずられる自分の姿。
 そこにはすべての音がない。
 「なんだろう?これは」
 終わったはずのことを思い出す自分が不思議でしょうがない。
  
  突然、聞こえる声「やめて!助けて!」
 自分の声だということに気がつくまで時間がかかる。
 映像はカラーになり、現実になった。
 恐怖・不安・絶望感が私を襲う。
 涙がとまらない・・・それでも映像はくりかえした・・・

 私が赤城を訪れたのは、日常生活を「普通」に送れなくなってからだった。
 車の運転中でも、仕事中でもフラッシュバックが起こり
 涙やふるえが止まらず、なにをしてもどこにいても不安でしょうがない。
 抗鬱薬も抗不安剤も一時的には効くが、症状は悪化していった。
 仕事も出来なくなり、通っていたメンタルクリニックの先生から
 「あなたは入院した方がいい」と、紹介されたのがきっかけだった。

 以前の私は、精神病院に偏見があったのだが、
  そんなことにかまってはいられなかった。
 「この状態をどうにかしたい」一心で、入院を決めた。
 入院してホッとした、というのが本音だった。
 病院には、常時、話を聞いてくれる治療者(医師・SW・看護)がいた。
 「薬は、減らしていきましょう」
 これがAKHの方針だった。

 はじめの頃、ここに入院したら「治してもらえる」と思っていた。
 しかし、朝夕の院内ミーティングを重ねるうちに
 仲間の話から悟った。
 「治すのは自分の力なんだ・・・」
 医師や治療者は、あくまで「手助け」でしかない。
 それらをうまく利用して、自分の心を癒していく・・・。
 AKHは主に開放病棟なので、外出も自由。
 だから、院外のミーティングにも入院しながら通うことができる。
 そこでは社会の中で生活している仲間の話を聞くことができる。
 
 しかし、いいことばかりではない。
 心を病んでいる者どうしの人間関係は、ある意味しんどい。
 一緒に回復していく仲間ではあるが、
 お互いの心の調子を思いやれない人も中にはいる。
 他者からの侵入を受けないためにも、自分を守る必要がある。

 現在、入院して1ヶ月経った。
 はじめは過去の虐待経験を思い出しては、泣いてばかりいた。
 しばらくして、元気なふりを始めた。
 ・・・自分は早くよくなって退院したい。
 ・・・他の人よりも自分はまだ症状が軽い。
 そんな気持ちから、また自分の過去の否認を始めたのだ。

 そんな自分に気がついて、現在はまた泣いてばかりいる。
 「27年我慢して押し込めていた感情は、そんなにすぐになくならないよ」
 「ゆっくりだけど、回復しているから、だいじょうぶ」
 医師に言われた言葉が、胸に響く。
 ゆっくり・・・ゆっくりでいいんだよね・・・?
 そう信じて、私はここにいる。
 いつか「幸せな家族」を自分でつくる夢をみながら。

 2000.9.22    AC 楓(かえで) 27歳


 「過食嘔吐、お酒、処方薬、ボロボロの人生からの再出発」

 10年間精神病院に入退院を繰り返しました。18歳頃には拒食症でやせ細っていましたが、やがて拒食から過食になり、嘔吐するようになって、お酒の乱用が加わるという「標準コース」をたどりました。次第にお酒と過食嘔吐で身体がボロボロになっていきました。パートの仕事も長続きしません。仲間と外で飲んだ後も自室で寝るまでチビチビと飲み続け、自分がみじめでつらいから、また目が覚めそうだから眠剤を追加して飲んで寝て・・・・それでも夜中に目が覚めてまた飲むというような生活になりました。慢性肝炎と慢性膵炎のため内科や外科に入院を繰り返しました。どうにも良くならず、先生から紹介された赤城高原ホスピタルに飛び込むように入院することになりました。

 入院はしたものの、とても大変な人達の中へ来てしまったと怖くて怖くてたまりませんでした。私はこの人達とは違うんだ。こんなところにいたらよけい気が狂ってしまうと思いました。何度も退院を考えました。院長に「ここの人たちは重症で、私とは違う。ついていけない」と話したら、「現在入院中の患者さんの中では、あなたは1番とは言えないけれど、3番目くらいに重症だから、安心してください。目が見えてくれば自分も仲間だと分かりますよ」と言われました。

 どういうわけか自分はうまく吐けなくなったので、食べ吐きを自由にしている私と同じ摂食障害者を見るのも苦痛でした。みんなが食べ吐きしていれば治したくても治せないじゃないの、と私はイラつきを感じ、その度に院長やソーシャルワーカー、看護婦に苦情を言っていました。

 ところが、同じ悩みを持った仲間の中で生活することに慣れてくると、どうしてだか、気持ちが楽なのです。食べて吐いてストレスを流して解消するのでなく、つらさや悲しさ、寂しさなど、自分の心の動きを感じ、安全な場所でそれを表現することが大切なのだと分かりました。感じるようになった分、院内の対人関係で気持ちが揺れ動いたり、人と話をするのが怖くなったり、落ち着かない日々もありました。でも入院して3ヵ月たった今、過食、嘔吐の量と回数は大幅に減っています。また不思議なことに精神安定剤や眠剤を飲んでいません。入院前に何年も当たり前のように飲み続けていた薬なしで眠られるのです。

 これまで、どうしても認められなかった、自分がアルコール依存症であるという事実も、今では素直に受け入れられます。お酒も安定剤も眠剤もなしで、これから先、退院してやっていけるのか、考えるととても不安です。でも自助グループに通いつづければ、お酒と食物に振り回されない人生を探し出せそうな気がします。お酒や食物で振り回される人生はもう嫌です。少しずつでも前に進み、小さな幸せを見つけだそうと思います。(2001年春)


● 「自由な雰囲気には驚いたけど、もっと効く薬はないの?」

 十年来の対人恐怖症に加え、6回目の自殺未遂がきっかけで、少し投げやりな気持ちでホスピタルに入院しました。父親がアルコール症で、院長によると私もアルコールと処方薬の乱用があるとのことですが、私は信じていませんし、信じたくありません。入院してすぐに後悔しました。いつ退院しようか、家族や親戚の人に何て説明しようか、と考えながら過ごすうちに、だんだん落ち着いてきて2ヵ月経ってしまいました。ここでは無為徒食する私を責める人がいないので、その分は気分的に楽です。

 これまでに精神病院に数回入院しました。どこでも規則と監視が厳しかったので、ホスピタルの自由な雰囲気には驚きました。あと患者さん同士が自主的にミーティングするという治療形態も不思議でした。でも私は1回出席しただけで逃げ出しましたから、少なくとも私にはミーティングの効果はありません。院長は処方を減らすことには熱心で、確かに処方は入院前の半分以下になったけど私は不満です。もっと、身体的に直接効果があるような薬はないの?(30歳代女性)


[ 当院サイト内、別ページの関連記事 ]

 お散歩礼賛

 病院周辺の風景写真1
 病院周辺の風景写真2
 病院周辺の風景写真3
 病院周辺の風景写真4 未完成
 病院周辺の風景写真5 未完成
 病院周辺の風景写真6 未完成

 
 病院周辺の草花と自然の写真1
 病院周辺の草花と自然の写真2
 病院周辺の草花と自然の写真3
 病院周辺の草花と自然の写真4 未完成
 病院周辺の草花と自然の写真5 未完成

[TOPへ]


ご連絡はこちらへどうぞ ⇒ address
または、昼間の時間帯に、当院PSW(精神科ソーシャルワーカー)にお電話してください ⇒ TEL:0279-56-8148

AKH 文責:竹村道夫(1999/2)


[トップページ]  [サイトマップ]